
経営に終わりはない
藤沢武夫(著)
文春文庫
¥490
文庫本: 235ページ
1998年7月10日 新版
●「おれは金はもってないけれど、金はつくるよ」
著者・藤沢武夫はこう言って本田宗一郎とコンビを組んだ。
単に一企業の儲けを考えるのではなく、社会的責任を全うするという愚直な道を選び、
なおかつ本田技研を二人三脚で世界的企業に育て上げた名経営者が、
初めて明かす、自らの半生と経営理念。
●新年あけましておめでとうございます。
今年も変わらぬご愛顧よろしくお願い致します。
新年2012年一発目の本は、
前から頭の隅っこで気になりつつも未読だった、
本田宗一郎を横で支えた名参謀、藤沢武夫さんの名著をご紹介いたします。
本書は、ビジネス書プロデューサーの土井英司さんの本で
かつて紹介されたこともあり、数年前に人気が再燃しました。
読書欲旺盛な方の中では既に読了された方も少なくないかと思います。
●本書の内容は、単なる無名の町工場の一つにすぎなかった本田の自動車工場を、
その本田の人柄や才能にほれ込み、
己の運命を託した藤沢武夫が、仕事人生を総括し、
かつ、本田技研をいかにして、
世界的企業にまで押し上げていったのかを熱く語った内容である。
●本書を読んでまず感銘を受けたのは、
本田も藤沢も、全く資金力がなかった創業時から、
金儲けよりも、ユーザーの安全性を最優先に考え、
仕事に携わっていたことである。
日本自動車産業の勃興期には、それこそ、
一山当てようという山師的な人間たちが、
車の安全性を度外視し、ただ売れればいいという安易な考えで、
欠陥車を大量に製造、販売していたはずである
(そして、そういう企業家の多くは、当然、この業界からは淘汰されていった)。
しかし、本田も藤沢も、起業当初から、
自分たちは、人々の命や安全を守る仕事をやっているのだ、
という意識が非常に高かった。
クルマ屋としての本分を絶対に忘れたりしなかった。
そういう大前提としてのモラルがあったから、何度も襲ってくる
企業としての危機においても、身を謝ることなく、
何とか乗り切ることが可能だった。
●また、それに勝るとも劣らず感銘を受けるのが、
幾度となく訪れる製品の致命的な欠陥を、
決して諦めることなく克服してみせる本田のエンジニア魂と、
門外漢である製造開発には一切口ばしを挟まず、
資金調達、生産調整、人事、組織改革など、
裏方屋に徹する藤沢の身のわきまえ方である
(これは、起業当初のアップル、
ジョブズとウォズニアックの関係性を彷彿とさせる)。
自分の強みにだけ特化し、弱いところは強い人に任せる。
役割分担を徹底し、任せた人のことは最後まで信用する。
我々凡人も決して忘れたくないことである。
●また、本田という一人の希有な天才創業者の力だけに
頼った企業であっては永続化しない、
第二、第三の本田を生み出すような企業であらねばならないという、
藤沢の考えにも心を打たれる。
終盤、その地位に恋々とすることもなく、
25年という区切りの時期に、
本田とともに潔く身を引き、後進へバトンタッチする場面なども、
映画のラストシーンを見ているかのような爽快感で、
本書の後味の良さを際立たせている。
●他にも、二輪車から四輪車への進出への経緯、
販売店をいかにして開拓していったか、
金融機関との付き合い方、
大量の社員や労働組合などの人心をいかにして掌握していったか、
海外進出の苦労話、研究所を独立させた意図、
国際カーレース出場や鈴鹿サーキット建設の舞台裏など、
ホンダ社史として読んでも、非常に有用である。
自動車業界以外の方が読んでも、多くのヒントを見つけることができる本。
やや古い時期に書かれたものだが、
その根底に流れている企業家精神はいささかも古びてはいない。
勇気が鼓舞されるという意味において、
新春に読むビジネス本として最適かと思う。
【マストポイント】
@「鈴鹿でみんなにいったことは、
帰りのお客さんの顔をよく見て商売しろ、ということでした。
つまらなそうな顔をして帰ったら、もう二度と来ない。
それが商売の鉄則だということですね」
A「なんといっても金には魅力、というより魔力があります。
しかし、金儲けをする能力ならば、本田宗一郎より私の方が上です。
しかも、私はやろうと思えばできないことはない地位にいた。
しかし、どんな場合にも本業以外で儲けることはやりませんでした。
個人でもやりません。株にだって手を出せないわけはないんですが、私はやりません。
自分の身のまわりはいつもきれいにしている。
だから、みんながついてきてくれる。
つまり、私が何をいっても安心していられるのは、
私の身ぎれいさ―それは金の問題に関してですが―
それが重要なポイントです。
そうすれば、私が苦しむときに、みんなにも苦しんでくれといえます」
B「本田って人は、自分が苦労をしているから、
人の分けへだてをしない人なんです。
白子工場をつくったとき、
まだ機械もろくに入っていないのに、
従業員の便所を水洗にして、石鹸を置かせたのは、本田です。
食べるところと同じように、出すところもまず清潔にしなきゃいけないというのです。
金がないときに、そこまでしてくれという。
そんなところが、皆をますます“本田かぶれ”にさせてゆくわけです」
(以上本文より。一部改変)
【著者略歴】
藤沢 武夫
1910年、東京生まれ。28年、旧制京華中学卒業。以来、丸二製鋼所、日本機工研究所長などを経て、49年、本田技研常務取締役、52年、専務、64年、副社長に就任。73年に第一線を退き、取締役最高顧問、83年取締役を退任。